【インタビュー】「魔法の天使 クリィミーマミ」誕生の秘密……ぴえろ創業者・布川ゆうじ 前編 | RBB TODAY

【インタビュー】「魔法の天使 クリィミーマミ」誕生の秘密……ぴえろ創業者・布川ゆうじ 前編

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「魔法の天使 クリィミーマミ」誕生の秘密 ぴえろ創業者・布川ゆうじインタビュー前編
「魔法の天使 クリィミーマミ」誕生の秘密 ぴえろ創業者・布川ゆうじインタビュー前編 全 5 枚
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1983年にテレビアニメとして放送を開始した『魔法の天使 クリィミーマミ』は、いまなお多くのファンから支持をされ、世代を超えて愛される。誕生から30年を超えるが、新たな商品も次々に誕生するほどだ。さらに、2014年5月28日には「魔法の天使 クリィミーマミ Blu-rayメモリアルボックス」も発売される。
そんな『クリィミーマミ』は、魔法少女モノの新たな表現を切り拓き、アニメ史上でも重要な位置を占める。また、アニメーション制作を担当したぴえろにとっても、創業期の転換点となった大切な作品である。
ぴえろの創業者(ファウンダー)である布川ゆうじ氏に、『魔法の天使 クリィミーマミ』の誕生の秘密、当時のスタジオの様子などを伺った。
[取材・構成: 藤津亮太]


■ 魔女っ子ものに新しいラインを

――『魔法の天使 クリィミーマミ』の誕生の秘密をうかがいたいと思います。そもそも『マミ』の企画はどうやって生まれたのでしょうか。

―布川ゆうじ氏(以下布川)
魔法少女シリーズというと、今でも『プリキュア』シリーズなどが継がれていますけれど、東映アニメーションさんの『魔法使いサリー』から始まる定番の路線があったわけです。そこに対して、もうちょっと毛色の変った新しいラインが作れないかと玩具メーカーさんが考えたのがスタート地点ですね。玩具メーカーさんも当時は景気がよかったのでしょう(笑)。
我々の仕事というのは、スポンサーなくしては成立しないものですから。具体的には、広告代理店の読売広告社から声がかかって企画が始まりました。

――読売広告社はどうしてぴえろに声をかけたのでしょうか。

―布川
読売広告社は、新しい魔法少女のラインということで、その前に葦プロ(現・プロダクション リード)と『魔法のプリンセスミンキーモモ』を展開していました。その次の企画として、うちに声をかけてくれたのです。
当時、ぴえろは'81年から始まった『うる星やつら』がヒットして、制作プロダクションとしてキャリアアップをしたタイミングでした。そういう勢いを次の魔女っ子シリーズに入れたいということでした。

――具体的な番組内容というのは、どうやって決まっていったのでしょうか。

―布川 
そのあたりは30年もたっているので、だいぶ記憶があやしいところもあるんですが(笑)、玩具サイドはあくまで玩具の提案だけで、世界観や設定は全部こちらで作りました。意識したのは上品さ。自分の娘に玩具を買ってあげてもいいな、と思えるような(笑)作品にしたかったんです。
たとえば『マミ』は主人公の優の青緑色の髪や、マミの紫色の髪などは、パステル・カラーを意識した色使いになっています。それは最初からのコンセプトでした。
当時はセル画での制作だったので、使えるセル絵の具の色数も少なく、その中での作業でしたが、マミ・カラーとでもいうべき特徴的な雰囲気が出ていると思います。特に優の髪の色は、キャラクターデザイナーの高田明美さんがこだわっていたところで、優のためにわざわざ新しいセル絵の具を作ってもらいました。美術についても美術監督の小林七郎さんの淡いトーンがキャラクターの色使いに合うだろう、ということでお願いしました。

――色使いだけでなく、キャラクターの私服のファッション性や、優の家がクレープ店という設定などが、当時の時代の空気を巧みに反映していた作品でした。

―布川
クレープ店という設定もこっちで作ったはずです。当時はまだクレープ店も珍しかったですよね。それは当時、まだ若かったスタッフが時代を先駆けてそういう要素を盛り込んだのでしょう。

■ 若かったスタッフの化学反応

――シリーズ構成の伊藤和典さん、キャラクターデザインの高田明美さんは『うる星やつら』のメインスタッフでした。

―布川ゆうじ氏(以下布川) 
みんな20代~30代でしたよね。伊藤ちゃんは『うる星やつら』の前に制作進行でぴえろに入ったけど、ライター志望だったんです。だからその頃、朝、会社に着くと僕の机の上に、彼の書いた脚本が置いてあるんです。さも、「読め」といわんばかりに(笑)。忙しくて、しばらく感想を言わなかったら、また新しい脚本が置かれてた、なんてこともあったような(笑)。
そういう熱意があったので『うる星やつら』でデビューさせたんです。その流れの中で、彼の才能を『マミ』という企画に生かしてみようかなと。そういう意味では、伊藤ちゃんをシリーズ構成に据えたのは必然でしたね。

――チーフディレクターが亜細亜堂の小林治さんで、亜細亜堂のスタッフもいろいろ参加されています。

―布川
ぴえろは『ニルスのふしぎな旅』からいくつかのタイトルを作ってきたわけですが、次第に今ぴえろにいる監督では、キャスティングが難しいなという企画が出てくるようになったんです。そういう時に外部の監督をお願いすることになる。
小林治さんの場合、どういうものを作るのか作風を知っていましたが、『マミ』は小林監督の指導力もさることながら、その下で演出した望月智充くんの存在も大きかったですね。望月くんのテイストと、伊藤ちゃんのシナリオ、高田くんのキャラクターがマッチしたのも『マミ』にとっては大きかったと思います。

――著書の『クリィミーマミはなぜステッキで変身するのか?』(日経BP)では、最終回の視聴率が非常に高かったというエピソードが紹介されていますが、放送中の評判というのはいかがでしたか。

―布川 
放送当初の人気は普通でした、玩具の売れ行きも特に大ヒットということはなく、こちらも普通だったと思います。それが最終回の視聴率が20%を超えた。それで日本テレビから表彰されました。
『マミ』は1年間で魔法を使える期限が切れる、という設定でスタートしました。つまり1年後の結果が決っていたわけで、そこから逆算する形でドラマを積み上げていくという作り方が、ドラマチックで視聴者に訴えたのだと思います。やはりストーリーの強さ、というのは大事ですね。

――最終回のエンディングで大人になった優の姿が描かれたのも印象的でした。

―布川
あの終わり方は非常に鮮烈で、心に刻まれた人も少なからずいたと思います。それだけにパート2的なものを期待した人もいたでしょうし、それを作るのが難しくなるようなラストシーンでしたね。

――シリーズ終了後には、TVシリーズのその後を描いたOVA『永遠のワンスモア』と『ロング・グッドバイ』が制作されています。

―布川 
つきあいがあったバンダイビジュアル(当時はバンダイ ネットワーク フロンティア事業部)の方も先鋭的な人が多くて、'82年に『ダロス』をOVAとしてリリースしました。OVAはTVとは違う形で、かつ劇場ほど興行のプレッシャーもない、新しいジャンルでしたね。『マミ』のOVAはその中で成立したもので、セールスも非常によかったです。
当時驚いたのは男性ファンがずいぶんついてくれたことです。現状から振り返って見ると決して不思議なことではないんだけれど(笑)、当時は「魔法少女ものなのになぜ?」と思ったものです。今のコアなファンというのは、ルーツをたどるとあのころからきているのだろうなと今にして思いますね。
アニメ雑誌「アニメージュ」でもぴえろ自体の特集を含め取り上げてもらったのも印象的で、当時編集長だった尾形英夫さんにはお世話になりました。

※小林治 東映動画からAプロダクションを経て芝山努らと亜細亜堂を設立。主な作品に『ど根性ガエル』(作画監督)、『きまぐれオレンジ★ロード』(総監督)などがある。

※望月智充 亜細亜堂を経てフリー。『永遠のワンスモア』で絵コンテ・演出、『ロング・グッドバイ』で監督を務めている。主な監督作に『きまぐれオレンジ☆ロード あの日にかえりたい 』『海がきこえる』『pupa』などがある。

※『ダロス』 月移民の独立運動を描くSF。OVAで鳥海永行と押井守が共同で監督した。'83年12月16日に第1巻より先行して第2巻がリリースされ、'84年7月に全4巻で完結した。

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