シンガポールで売れる「有田焼」!海外進出成功の秘密
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
有田焼の海外事業は99年に始まった。関連業界が共同して貿易会社を立ち上げ、海外への営業活動をしたものの、やがて会社は6年ほどで活動を終了。ただ、同社に出資していた有田焼・波佐見焼の産地商社キハラでは、その後も独自に海外事業を続けていた。
代表取締役社長 木原長正氏によると、同社の海外事業に転機が訪れたのは12年のこと。この年、キハラは日ごろから懇意にしていたコーディネーターの大谷啓介氏に誘われて、シンガポールの展示会に出展する。そこで現地でライフスタイルショップを営むエドゥイン・ロウ氏と出会ったことから、シンガポールへの販路開拓ははじまった。
■販路とデザインをパートナーにゆだねる
シンガポールへの進出にあたり、木原氏は2つの条件を考えていたという。ひとつは、有力な販売店と良好なパートナーシップを結び、商品の委託からマーケティングまでを任せられること。そして、もうひとつが現地の生活に合ったものづくりを提案できる、デザイナーと知り合うことだ。
「過去の経験から日本で流通しているものを展示会に持ち込んだとして、一度は取り扱ってもらえても、後が続かないのが分かっていました。食文化も違えば、習慣も違う地に日本のものを持ち込んでも、生活に溶け込むアイテムにならない。現地の人が理解できるものを作るには、パートナーとの提携が不可欠でした」
エドゥイン氏はショップを営む傍らで、大学でデザインの教師をしていた。展示会で見た有田焼を気に入った同氏は、すぐに木原氏に「シンガポール人に向けたデザインの器を作ってくれないか」と話をもちかける。それは、まさに木原氏が待ち望んでいたことだった。
その後、キハラはエドゥイン氏のリクエストを受けて、シンガポールの若手デザイナーを起用したデザインを、有田焼の器に絵付けしていく。その意匠は日本人にとって、何をイメージしているものか分からない。しかし、現地ではそれがギフトとして受け入れられ、やがてキハラの事業における一つの柱となるまで成長していく。その一つのトリガーになったのが、経済産業省が主催する海外進出支援事業「MORE THANプロジェクト」だった。
■二国間打ち合わせがビジネスを前に進める
MORE THANプロジェクトでは、プロジェクトマネージャーやデザイナーなど、海外進出事業に関わる人物の活動に補助金が利用できる。15年に採択された事業でいえば、エドゥイン氏をデザイナーとし、大谷氏がプロジェクトマネージャーに就任。両者が二国間を行き来する渡航費などに、補助金を利用することができた。
エドゥイン氏とのコミュニケーションを密に行うことで、キハラではシンガポールに向けた商品の開発が加速していく。シンガポールの権威あるデザイン賞「President’s Design Award」を受賞した“シンガポールアイコン”などのデザインも、このプロジェクトを通して開発された。
さらに、エドゥイン氏はプロジェクトを通じて、日本各地の工芸品の産地を渡り歩く。名古屋の多重織りガーゼ、高岡の錫・真鍮鋳物、京都の刺繍やファブリックなど。16年にはそれらの商材を集めた旗艦店をオープン。シンガポールのニーズに合わせたこれらのラインアップは、現地のメディアツアーに組み込まれるなど、大いに注目を集めた。
「社員の誰かが駐在して、その土地の生活や文化を理解したうえで、デザインを提案できれば一番いい。でも、中小企業ではそんなことはできません。だから大切なのは任せられる人を現地で探すことなんです」
12年にシンガポールに出展した際、木原氏はすでに海外事業をたたむ心づもりだった。参加したのは、やはり事業が無理だという確認をするため。実際に展示会に出した商品は、そのほとんどが売れなかったという。その時に持ち込んだ商品は、国内向けのアイテムから、「海外でも売れるのでは?」と木原氏が勘で選んだものばかりだった。
なぜ、キハラの食器が売れたのか。それは、エドゥイン氏と出会い、現地のデザイナーの絵柄を取り入れたことに尽きる。そこに、MORE THANプロジェクトを組み込み、ビジネスをさらに成長させたことで、有田焼はシンガポールに受け入れられる品物となった。その規模は今も拡大し続けている。
【海外進出を支援する:2】有田焼を世界へ広げたローカライズ
《丸田鉄平/H14》
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