「なぜ俳優が謝るのか」
IUとビョン・ウソク主演のドラマ『21世紀の大君夫人』(MBC)をめぐる歴史歪曲論争が、今度は“俳優の責任”をめぐる議論へと広がっている。
きっかけは、終盤に放送された即位式の場面だった。
劇中のイアン大君(ビョン・ウソク)が王位に就く場面で、臣下たちが「万歳」ではなく「千歳」と叫んだことが問題視された。「万歳」は自主独立国の君主に対する表現であり、「千歳」は皇帝国に属する諸侯国を連想させる表現と見られたためだ。
さらに、イアン大君が皇帝の臣下である諸侯が着用するとされる「九旒冕冠(きゅうりゅうべんかん)」を身につけていたこと、劇中で中国式の茶道に見える場面があったことも批判を浴びた。
制作陣は、朝鮮の礼法が歴史の中でどう変化したのかを細かく見られなかったとして謝罪し、世界観と現実の歴史的文脈が交差する部分をより慎重に扱うべきだったと認めた。また、再放送やOTTサービスでは、問題となった部分の音声や字幕を修正すると明らかにした。
ここまでは、韓国時代劇でたびたび起きてきた歴史考証論争の延長線上にある。

本当に謝るべきなのは誰なのか
だが今回は、主演俳優の謝罪まで大きな議論になった。
IUはファンとともに行ったドラマ最終回の団体観覧イベントで、「もっと責任感を持って頑張る」と涙ながらに語った。さらにSNSにも謝罪文を掲載し、「主演俳優として責任感ある姿を見せられず、大きな失望を与えたようで申し訳ない」といった趣旨を伝えた。

ビョン・ウソクも自身のSNSに謝罪文を投稿。さらにNetflixの新バラエティ『ユ・ジェソクキャンプ』制作発表会の場でも、ドラマの論争について「本当に申し訳なく思っている」と頭を下げた。
しかし、この謝罪に対して海外ファンからは疑問の声が相次いだ。
「彼女が脚本を書いたわけではない」「俳優が小道具担当やアートディレクターまでやるのか」「制作陣のミスを俳優が謝るのはおかしい」といった反応だ。
たしかに、俳優は脚本家ではない。美術監督でも、小道具担当でも、歴史考証の専門家でもない。台本を受け取り、現場で演じ、監督のディレクションに従う立場である以上、王冠の形や即位式の礼法、茶道の様式まで俳優が最終確認するのは現実的ではない。
完成した映像がどのように編集され、どの場面がどのように見えるかも、俳優がすべて把握できるわけではない。
その意味で、「なぜ俳優が謝るのか」という疑問が出てくるのは自然だ。

今回の論争でまず責任を負うべきなのは、当然ながら制作側だろう。
脚本、演出、美術、衣装、小道具、考証、編集。時代劇や代替歴史物では、そうした各部門が歴史的記号を扱うことになる。特に『21世紀の大君夫人』は、21世紀の立憲君主制国家を背景にしたフィクションではあるが、王、即位式、礼法、称号、衣装といった要素を用いている以上、現実の歴史的文脈と無関係ではいられない。
実際、5月19日に行われたパク・ジュンファ監督の終映インタビューは、責任の所在を考えるうえで象徴的だった。
パク監督は取材陣の前で頭を下げ、「言い訳の余地なく、制作陣を代表して自分に最も大きな責任がある」と謝罪した。さらに、作品のために努力してきた俳優たちに、結果的に困難を感じさせてしまったことについても申し訳ないと述べた。
監督は涙を見せながら、視聴者に不快な思いをさせたことを重ねて謝罪している。
これは重要だ。俳優が謝るより前に、作品を統括した演出側がまず責任を引き受けるべきだったという意味でも、監督の謝罪は当然の対応だった。
ドラマは俳優だけで作るものではない。むしろ、歴史考証や世界観設定の最終責任は、制作陣と演出側にある。俳優にすべてを背負わせるのは酷だ。海外ファンが怒ったのも、そこだろう。

作品に問題が起きるたびに、最も目立つ俳優が矢面に立つ。制作陣や放送局の名前より、主演俳優の名前が先に叩かれる。特にIUのように作品の看板となるスターは、視聴者の期待も批判も一身に受けやすい。
しかし俳優は作品の顔であっても、作品の全責任者ではない。
それでも俳優が無関係とは言い切れない
一方で、俳優の謝罪がまったく意味のないものだったとも言い切れない。
IUとビョン・ウソクは、この作品の主演だ。作品の宣伝でも中心に立ち、視聴者の多くは2人の名前を見てドラマに関心を持った。『21世紀の大君夫人』は、IUとビョン・ウソクの共演作であること自体が大きな売りだった。
つまり、2人は単に役を演じた出演者ではなく、作品の顔でもあった。
その意味で、主演俳優が「作品を愛してくれた視聴者に失望を与えて申し訳ない」と語ること自体は、理解できる。制作上のミスを自分が起こしたわけではなくても、自分の名前を背負った作品で問題が起きた以上、視聴者に対して遺憾を示すという判断はあり得る。
そもそも韓国ドラマ界では、主演俳優に求められる責任が非常に重い。作品が成功すれば主演の功績として語られ、失敗すれば主演の責任として語られる。演技力、興行成績、話題性、作品選び、インタビューでの態度まで、すべてが評価の対象になる。
その延長で、歴史歪曲論争でも「主演なのに気づかなかったのか」という視線が向けられる。もちろん、これはかなり厳しい見方だ。

しかし、トップ俳優は高い報酬を受け取り、作品の看板として大きな影響力を持つ。であれば、歴史劇や代替歴史物に出演する際、台本や場面設定に対してより敏感であるべきだったという指摘も完全には無視できない。
問題の場面を実際に演じた当事者である以上、「自分は言われた通りに演じただけ」と完全に切り離すことも難しい。
特に韓国では、歴史、主権、中国との関係をめぐる描写が非常に敏感に受け止められる。『21世紀の大君夫人』のように、王室や即位式を扱う作品では、たとえフィクションであっても歴史的記号への感度が求められる。
俳優が専門家のように考証できる必要はないが、トップ俳優であれば、作品が何を描き、その表現が社会でどう受け取られるかについて、もう少し敏感であるべきだったのではないか。そうした批判にも一定の説得力はある。
謝罪は「責任の肩代わり」だったのか
結局のところ、俳優が謝るべきかどうかは一言で決められるものではない。
俳優に歴史考証の最終責任を負わせるのは間違っており、脚本、演出、美術、衣装、小道具、編集の責任まで俳優に背負わせるのは過酷だ。その点では、海外ファンの「なぜ俳優が謝るのか」という反発はもっともだろう。
しかし、主演俳優が作品の顔であることも事実だ。
視聴者は作品を、監督や美術チームの名前ではなく、まずIUやビョン・ウソクの名前で見る。だからこそ、2人の謝罪は「自分たちが歴史歪曲をした」という意味ではなく、作品の顔として視聴者に失望を与えたことへの謝罪だったと見るべきだろう。

問題は、その謝罪が制作陣の責任を薄める形になってしまうことだ。俳優が先に頭を下げると、世論の焦点は俳優の言葉に集まりやすい。すると、本来問われるべき制作体制、考証過程、演出判断、放送局の責任が後ろに下がってしまう。
今回、パク・ジュンファ監督が涙ながらに「自分に最も大きな責任がある」と認めたことで、その点はある程度整理された。
それでも主演俳優が謝罪せざるを得ない空気があったこと自体は、韓国ドラマ界の構造的な問題を示している。
『21世紀の大君夫人』の歴史歪曲論争は、単なる考証ミスにとどまらなかった。それは、ドラマに問題が起きたとき、誰が責任を負うべきなのかという問いを突きつけた。
答えは一つではない。ただし、少なくとも俳優にすべてを背負わせるべきではないということだ。そのうえで、トップ俳優が作品の看板として社会的な責任から完全に自由でいられるわけでもない。
IUとビョン・ウソクの謝罪は、俳優が悪かったからというより、韓国ドラマにおける主演俳優の責任がどこまで重くなっているのかを示した出来事だった。
■【画像】「失望させたのは、純粋に私の過ち」IUがファンを前に涙ぐむ


